2024.9.22
大沢田(青森県十和田市)の風景に癒される
弘前、黒石から三沢へ向かうルートとして国道394号線を走り、酸ヶ湯温泉(お盆で宿や登山口の駐車場は満杯でしたね)の前から七戸を経て、十和田市内に入る前に大沢田経由で三沢市に入りました。
この大沢田の風景が旅の疲れを癒してくれる雄大な美景で、ここまでの開拓の歴史を彷彿とさせます。思わず車を止めて満喫さえていただきました。
2024.9.14
田舎舘田んぼアート
道の駅「いなかだて」はこれまでも北海道への旅の中継地など何度か利用させていただいております。
そのたびに田んぼアート発祥の地であるこの地を観覧期間中に訪れてみたいと願っていました。
1993年に3色の稲でスタートし、現在では7色の稲を使いこなし繊細で緻密なアートを作り上げているそうです。稲の色に7色もあることに驚きです。
第1会場(田舎館村役場、当地出身の横綱、栃ノ海のコーナーもありました)、第2会場(道の駅いなかだて)ともに訪れることが叶いました。
2024.9.13
ねぷた展示館(青森県平川市)
毎年8月2~3日に開催される平川ねぷたまつりで実際に運航される、世界一の扇ねぷたの展示施設を訪れました。
水墨画調で描かれた通常のねぷたの2倍はあろう(高さ12m、幅9.2m、重さ約6tだとか)かという勇壮なねぷたは必見です。
ねぷたの立派さはともかく、この施設には電源立地特別交付金が利用されているとあります。
平川市のHPによれば
「電源立地地域対策交付金事業」電源立地地域対策交付金について
として
電源立地地域対策交付金は、発電用施設の立地地域・周辺地域で行われる公共用施設整備や、住民福祉の向上に資する事業に対して交付金を交付することで、発電用施設の設置に係る地元の理解促進等を図ることを目的としています。
(中略)平成17年度以前は旧平賀町、合併後の平成18年度以降は平川市として交付され、公共施設の維持運営費に活用しています。
とあります。
原資は電気料金。
本当に「発電用施設の設置に係る地元の理解促進等を図ること」ができるのでしょうか???
青森県の主な電源三法交付金の交付実績(自治体別集計、昭和56年から令和3年)が県のHPにあります。
累計3815億1288万9千円ですか
。原発のある都道府県では当たり前なのかもしれませんが、これでいいんかねー???お金で地元を頷かせる、これってやっぱり買収ですよね。
2024.6.2
歴史に翻弄された斗南藩の史跡跡を訪ねてきました
「会津の地を追われて本州の最果てに流転の旅路を続けようとも、この地もまた大君(天皇)の領土であることには変わりはない。我々は朝敵でもなければ賊軍でもない。ともに北斗七星を仰ぐ帝州の民である。」とあるように、私には薩長や土佐藩を中心とする明治新政府がなぜ会津藩に戦争(戊辰戦争、会津戦争)をしかけたのかわかりません。
そもそも洛中の治安維持や御所・二条城の警備などを担ってきた京都守護職の会津藩が朝敵たりうるのか?皆目わかりませんでした。
京都守護職に就いた(1862年)の2年後に起きた禁門の変(蛤御門の変)では京都から追放されていた長州藩勢力が挙兵。激戦地となった、禁門、すなわち京都御所の門には当時の銃痕が今でも残ります。
その首謀者側の一人の久坂玄瑞(松下村塾では高杉晋作と共に「村塾の双璧」といわれ、吉田松陰の妹・文も玄瑞に嫁いでいる)は敗戦後、朝敵(御所に向かって発砲しているわけですからね)として自害。
しかしこの朝敵の久坂玄瑞が靖国神社に祀られて神となっている一方、西郷隆盛や、戊辰戦争の会津藩等の人びとは祀られてはいないのですね。
西郷も会津も新政府の敵となったことが影響しているのです。つまり自分たちが朝敵とされた仕返しという、本当に「国のために殉じた人々」かどうかでなく、その時の喧嘩の後の親分側が勝手に決めるという見識の狭い処遇といえると思います。靖国神社の前身(東京招魂社)が長州の大村益次郎の力で創建ですから、判断は一方的だったわけなのですね。まあ靖国は政治色の強い神社ですから、靖国に祀られることが必ずしも良いこととは思いませんが(靖国とは政治の道具、戦争遂行を美化する道具と思います)。
戦没者を慰霊する場所は靖国だけではありません。
さて前置きが長くなりましたが、戊辰戦争で敗れた会津が家名再興を許され新天地となったのが斗南藩3万石です。容保の嫡男の藩主松平容大は幼く、斗南藩権大参事に就いた山川浩(大蔵、NHK大河ドラマ「八重の桜」では、大好きな俳優の一人の玉山鉄二が演じていましたね)らが、最果ての地で復興に尽力しますが、1871年(明治4年)7月1の廃藩置県で斗南県となり、さらに9月に青森県に編入され、わずか2年足らずで斗南藩は消滅しました。その会津復興の夢の地であったこの地域を訪ねる旅が叶いました。
▼下の写真は2019年12月に蛤御門を訪れた時の写真、銃痕がはっきり残っています。